修羅の日記(公開試運転中)

ダイアリーから移転しました

森林鉄道と電力会社〜木曽川の筏流し 

木曽川に中央線や森林鉄道が登場する以前、周辺で伐採される木材は、河川を使って桑名や名古屋に運ばれていました。たとえば伊勢神宮の20年に一度行われる式年遷宮のための用材は木曽から搬出されるわけですが、運搬経路が鉄道や道路に変わっても、木曽川を介して木曽地域と下流の都市とが強く結び付き、御神木を伐採して、あちらこちらを通るたびに神事が執り行われることで、その結びつきを今でも改めて知ることができます。
電源開発に伴うダム建設が原因で、木材流送ができなくなる代替輸送機関として鉄道を敷くことが条件となり、木曽谷各地に森林鉄道が生まれることになりました。たとえば王滝川周辺には王滝森林鉄道、付知川周辺に付知森林鉄道と北恵那鉄道など木曽川流域では、おびただしい数の鉄道が一気に生まれました。

電源開発前夜の河川を使った筏流しの雰囲気としてお目にかけるのは、昭和3年の船頭平(せんどうひら)の閘門(こうもん)の風景です。鉄道がある程度発達した昭和初期においても、未だ並行して筏の流送が続けられていたことがわかります。舟は犬山市あたりから河川伝いに名古屋市に入るルートもあったようですが、木曽川上流域で組まれた筏は、木曽川河口から伊勢湾経由で名古屋の貯木場に行くルート、揖斐川を経て桑名の貯木場にいくルートがあり、薩摩藩が辛酸をなめながらも礎を築いた宝暦治水事業以降、何度も木曽川長良川の間を締め切る追加工事で堤防が築かれましたが、当時も筏や船の通路は確保されていたとされています。船頭平閘門はヨハニス・デ・レーケが大きな役割を果たした明治期の治水事業で木曽川河口を背割堤で完全に閉め切る代わりに、筏などを通過させるために明治35年(1902)に誕生したものですが、木曽川長良川の間の水位が最大で約50cmあり、ポンプで給排水して運用しました。



■王滝川周辺から木材を樋状に敷いて伐採した材木を滑走させる「修羅(しゅら:自分のHNはここから)」や「棧手(さて)」、それを止める仕組み「留」、向きを変える仕組み「白」、支流で水量を調節して材木を集める仕組み「小谷狩り」など三百年の歴史がある「木曽式伐木運材法」*1を使って、最終的に木曽川に集められたヒノキは筏に組まれて、木曽川を流れ流れ、長い旅をして、ここに到着し「ぎーっ」と閘門の鉄の扉が開いて中に入り、扉が閉まりポンプで注排水して水位を調節したのち、向こう側の鉄の扉は開いて出ていって桑名の貯木場で値段がついて売れていく、てな具合ですね。場合によっては木を切ってから売れるまで1年ぐらいかかったとも言われています。
■ 統計のある完成翌年(明治36年)には閘門操作回数は5,833回、通航船舶は27,169隻、筏5,569枚を記録しているそうです。(国交省木曽川下流事務所発行の広報誌「Kisso」による)閘門の連なるパナマ運河は、もちろんそれ以上でしょうけれど、往時の物流を川が支えていたことがよくわかります。やがて、それは鉄道網の整備により鉄道に、戦後は道路とトラックにとって代わられ、今では宅急便にような翌日配達の宅配システムまでできてしまいました。材木も同じように運搬手段は川から鉄道へ。鉄道から道路へですね。
 もちろん筏(いかだ)を悠長に流して何カ月もかけて材木を届ける時代ではないけれども、神宮の用材など山から海につながる伝統文化の一つだと感じるのです。















■船頭平閘門は現在は役目を終え御覧のように木曽三川公園の中に保存されています。
■写真が古くて申し訳ないです。最初は平成4年ごろ四日市港の仕事で、車でこの公園にある「木曽川文庫」にお邪魔してヨハニス・デ・レイケのことを調べにいき、後で改めて5歳の娘と近鉄長島駅からハイクしたのですが、往復で10キロくらいあって、この写真を撮った後、帰路で長女が「輪中の郷」の建物前あたりで「もう歩けない。」と泣き出し、水道の水で足を冷やしたりしましたがギブアップ、結局、背中に背負って歩くという羽目になり、今でも「恐怖の10キロハイク」としてうちの語り草に。
■その長女ももうすぐ25歳です。このころ「泣き虫」を克服するために、休みのたびに、できるだけ車を使わず二人で出掛けて歩いていました。こどもは車に乗せて出かければ目的地まで寝ていても連れていけるし、何かと便利ですが、電車に乗せ行程を意識させたり、公共交通機関でのマナーを身につけ我慢させるのも大事だと思います。今は、そもそも親の世代が車の便利さに慣れてしまって、そういう風に育ってないかもしれませんね。
 女の子の場合は特に母親から離れるだけで、幾分「甘え」が消えて頼もしく感じることがありました。この前後には、毎週のように日帰りででかけ、泊りでも東京ディズニーランド大井川鉄道寸又峡など二人でいろいろな所へ行きました。一番困ったのはトイレに付き添ってやれないこと、これだけはどうにもならないです。でも娘はトイレの中で「よそのおばさんに助けてもらった」とか、割と「けろっ」としていましたけれど。
 遠距離ハイクが、どれだけ娘の人間形成に役立ったかは定かではありません、「泣き虫」は多少なりとも治ったみたいですけれど。涙もろいのは遺伝で直しようないね。

■上の写真を撮った船頭平閘門のある河川公園の位置

大きな地図で見る
【追記】この船頭平河川公園の位置をあちらこちらのHPで調べていて、管理が国営木曽三川公園に集約されているためか、あまりきちんとした位置図がなく、Googleをいじって上のリンクを貼り付けてみました。昔はこんなものを貼りつけると一気にフリーズしたりロクなことがありませんでしたが、意外に面白くて気に入りました。輪中の様子や3つの川のそれぞれの締め切り工事の様子がよく解ります。また文中に「恐怖の(往復で)10キロハイク」とありますが、測ってみると近鉄長島駅からこの場所まで道を辿ると4.9キロと意外に正確な距離だったと驚きました。カメラのGPSユニットを買い撮影場所を表示するとかをやってみたくなりました。「使用許諾に関するガイドライン」を読むとGoogleの地図は合衆国の法に基づいて「アメリカに都合悪いところは消されるのだな。」って改めて認識しましたが、ここはアメリカ合衆国国益には関係のない至って平和でのどかな場所です(笑)。<2011-11-05>
■娘が大好きだったアクティブな公園
国営木曽三川公園 http://www.kisosansenkoen.go.jp/
木曽三川の治水の現状・歴史を知る
国土交通省中部地方整備局木曽川下流河川事務所 http://www.cbr.mlit.go.jp/kisokaryu/index.html

*1:赤沢休養林の資料館にはこれらの解説があります。