修羅の日記(公開試運転中)

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道の駅「ぷらっと訪夢」 のと鉄道輪島駅の残像


輪島市中心部に道の駅「ぷらっと訪夢」がある、この施設はバス発着場の機能を中心に観光案内、物産販売、レストランなどの複合的な機能を持つ新しい建物である。

■「ぷらっと訪夢」とはやや珍妙な名前をつけたものだが、その名の通り鉄道の駅舎ではないか思わせるデザインである。

■この建物を入っていくと、その裏にある文化会館との間に、突如として踏切と警報機が点灯しはじめて現れる。あれれーー!?

■左にはわずかながらレールを敷き「のと鉄道輪島駅」のプラットホームが再現されている。輪島駅の駅名標には左「のといちのみや」、右にはなんと「シベリヤ」と書かれている。能登半島からウラジオストク港へ、まるで「見果てぬ夢」かのようにように思える。

■僕の頭の中の引き出しには、機芸出版社「シーナリーガイド」の河田耕一さんの記事があり、あちらこちらを訪ねて往時を偲んだりするのだけれど、その中に「C56のいくところ〜能登半島七尾線」という重要な記事がある。この記事で河田氏は金沢駅から輪島駅までの七尾線の風景を見事に活写している。

■輪島駅に関しては構内の図面までついているが、そのまま鉄道模型にしてしまいたいほど、小規模な終着駅のモデルとして取りあげている。描かれているのは駅本屋、貨物上屋などの駅施設のほかに、機関車C56が転回するためのターンテーブル、駐泊所、木製のクレーンのついた貨物ホームと隣接する製材所などだ。

■車内の風景の描写では、主要なお客は能登半島の中心、七尾駅で降りてしまい、「七尾から先はオハニ・オハ・オハニ、或いはオハユニ・オハ・オハフで、大体61系がであるがオハフ33も多く、オハユニ71も1両使われていた。」 要するにたった3両編成ということだ。
■「列車が着いてしばらくの間、駅の前は行商人で賑わう。しかし人々はすぐ去ってしまい、C56もまもなく入換を済ませて、ターンテーブルで向きを変え、くらの中に入ってしまう。時が過ぎていつしはなしに人が駅に集まってくる。するとC56もくらから出てきて、客車をホームに据えるのである。」 と淡々と描きながらも、やや寂しい雰囲気を伝えて文を結んでいる。

■ふと目を落とすと見ると「ぷらっと訪夢」にはレールの終端が設けられ、それを見ているとやけに寂しい気分になった。ここまでして名残惜しくみなが感じているのに、なぜ鉄道を残さなかったのか、不思議でならない。C56の時代から輸送量は少なく赤字で廃止せざるを得なかったにしてもである。

■ディスカバージャパンやアンノン族、そしてバブルの時代には朝市で名を売って相当な数の観光客を集めていたはずである。街並みもきれいに整備されているにもかかわらず、輪島漆器の低迷もあって駅周辺の商店街は寂れて空き店舗だらけである。これは鉄道が無くなったことと無縁ではないようによそ者ながら思う。

■一方で道路の方はといえば、2年後の北陸新幹線開通をにらんで今年3月末に石川県は道路公社を解散し有料道路だった能登半島道路を無料にするという太っ腹!有料道路を無料にするには建設費を繰り上げて償還する財源が必要だったはずである。

■皮肉にも輪島市内から数キロの「白米の千枚田」が海に面した棚田として注目を集め、「世界農業遺産」に指定されたこともアリ大型の観光バスがばんばん乗り付けて人を集めている。たしかに人が作った素晴らしい景観だと思う。でも輪島にはどれだけの人が立ち寄るのだろう?能登空港とも通じている無料になった道路で自分らのように和倉温泉の巨大旅館へ多くの人が流れるのではないか。

■河田氏の記事でも30‰という勾配や曲線が多いのと鉄道は線形も時代遅れの鉄道だったのかもしれない。朝ドラで何かと話題の三陸鉄道は線路は、のと鉄道とは違い意外に近代的である。それでも残せなかったのものかという恨みつらみが、「ぷらっと訪夢」をはじめ、あちこち残る廃線跡に散っている感じがするのである。