修羅の日記(公開試運転中)

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ハナモモと北勢線

北勢線(楚原〜麻生田)山田川橋梁東。桜の季節は終わっってしまいましたが、代わってハナモモが紅い花を咲かせて春の彩りを添えてくれています。亡くなった母が花桃が好きで畑に植えたものも紅く咲いていますが、この木はなかなか見事な枝ぶりで三岐カラーによく映えます。

【ハナモモ(花桃)】バラ目バラ科サクラ属の耐寒性落葉低木。原産地は中国。花を観賞するために改良されたモモで、花つきがよいため、主に花を観賞する目的で庭木などによく利用される。日本で数多くの品種改良が行われ、種類が豊富。そのほとんどの園芸品種が江戸時代に品種改良されたもの。(Wikipediaより抜粋)

■のどかな風景に似つかわしくありませんが、この場所は三重交通時代に大きな事故が発生したところ。昭和32年(1957年)11月25日午前8時10分ごろ、通学客で満員の上り桑名京橋行きの電車が過速のため勾配S字カーブで脱線転覆。死者3人、重軽傷者3人、軽傷者多数を出した大事故が発生しました。当時の員弁高校では全校生の20パーセントに当たる140人余が被害を受けたという、たいへん悼ましい話が伝わります。
(参考資料:「北勢線90年小史(改訂版)」西羽 晃)

■事故はかなりのスピードで走っていた電車が現場で急ブレーキをかけ、3両編成中央2両目が浮き上がり脱線、枕木に車輪をひっかけて転覆しました。この中央の車両サ101の乗客に被害が集中したそうです。制限時速25キロのところを36キロで走行したことが、直接の原因とされていますが、当時は貫通式ブレーキも装備されておらず線路状態の悪いS字カーブでは脱線しやすい状況だったのではないかと推測されます。

■この貫通式ブレーキとは、ホースを連結・接続して制御車のブレーキ操作に合わせて客車のブレーキを圧縮空気で作動させる仕組みで、その有無を問う向きもありますけれども、ほとんどの軽便鉄道の客車には装備されていないのが普通で昭和32年という時期でも、その状況は同じだと考えられます。

■やはり戦争中に疲弊し状態が悪化した線路上でスピードを出し過ぎたことが原因なのだろうと考えられます。

■今はごらんのように掘割のようになっていますが、これは事故後に新たに付け替えられた線路で、昔の線路は六把野井水の用水路沿いに回り込んで走っていたと伝わりますが、木々に覆われて往時の線路を推定するのは難しかったです。
ちょうど畑を耕作している方がおみえになったので、畑に入らせていただいて用水を撮影してみましたが、ハナモモの木から手前が線路敷地ということになるのですが・・、持ち主にお尋ねしてもはっきりわかりませんでした。
■帰ってからGoogleの地図と写真を対照して現場の西、山田川から用水の流れに沿って手前(南)に今よりもっと膨らんでカーブし、東、西桑名向きに楚原9号踏切のところで向きを変えて北に膨らみカーブというように、急曲線のS字にのたくっていたのだろうことは想像しました。合掌。