修羅の日記(公開試運転中)

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彼岸華と北勢線(2)

北勢線大泉駅】今年の季節の歩みは早く、秋の深まりを感じるこのごろです。台風の影響で咲き始めるのが遅かった彼岸花も、御覧のように色褪せがしてきて、今週中にはすべて花びらを落としてしまいそうです。初秋を彩るヒガンバナユリ科の植物で球根から茎をのばし花をつけます。鱗茎(りんけい)にはアルカロイドなどの毒がありますが、利尿や去痰などの薬として用いられる場合もあるそうです。別名「舌曲がり」、小さいころ「舐めると舌が曲がる」と教えられました。本当に舐めたことがないので嘘か本当なのかわかりません。花が終わると葉が生えてきて、そのうち地上に現れているところは無くなります。
 水田の畔道に人為的に植えられた理由は、この毒でモグラなどの穴を掘る小動物が近寄るのを避けるため、といわれています。
 それにしてもこの花の赤い色は独特の鮮やかさで、「見るのもいや」と嫌う人もいますね。

 

【麻生田〜楚原(旧上笠田駅付近)】
■軽便に詳しい人なら、みなさん知っていることですが、写真のク200型202は少々クセのある車両です。
■戦後、昭和34年に三重交通が製造し、三重線(現在の湯の山線)に投入した車両で形式4400型4401M1+4401T1+4401M2と称された三車体連接の車両です。近鉄時代の形式はモ201・サ101・モ202です。前面は時代を反映して当時、流行の湘南型になっており、側面ノーシル、ノーヘッダー、張り上げ屋根、アルミサッシュの近代的なスタイル、電車としての性能も垂直式カルダン駆動という先進的なものを導入した「軽便」としては画期的な電車と言われています。
■この電車が製造された昭和34年4月には三重交通によって御在所ロープウェイが開業し、これが大当たりとなって湯の山温泉は第一級の観光地となって多くのお客さんで賑わうことになった年でもあります。ロープウェイは今も三重交通の子会社が運営していますが、三重交通がこの車両を新たに投入したのは、そうした時代背景があります。
近鉄に引き継がれ湯の山線の改軌で北勢線に移った後、駆動装置が複雑なために保守が難しいとして、昭和45年に電装解除され、一旦運転台も撤去されましたが、昭和52年の北勢線近代化にあたり制御車として運転台が復活、今はこの列車の最後尾、昭和52年製モ270とペアを組んで運用されています。
■連接車といえば近鉄ビスタカー小田急ロマンスカーとか京阪のびわこ号、海外ではスペインのタルゴとか・が頭に浮かび、「先進的でかっこいいもの」というように子どものころに刷り込まれているので、写真を撮っていてク202が先頭だと何とはなく「儲けたような気分」になるのです。意識的にこれを追いかけているわけではないのですけれどね。
■模型では昔、乗工社から三連接車体のキット、完成品が発売されていました。乗工社が倒産した直後だと思うのですが、Uさんにお願いして珊瑚模型でモニ210のキットを買ってきていただいたことがあり、その際に「モ200のキットも大量に在庫していますが、どうしますか?」と親切に尋ねられたのですが断ってしまったことを少々、後悔しています。というのも半年ぐらい前だったか、ヤフオクで完成品やキットがでてきて、落札しようと思っても、えらい高い値段になってしまい今更ながらに、その価値を見直しています。断った理由は、確か「三両分なので値段が張る」、「近代的すぎて軽便のイメージがない、モニの方が好み」、「三連接車体が長くナローの小さなレイアウト向きではない。」というようなことだったと記憶しています。先日の軽便模型祭の下電モジュールを拝見して、モジュールレイアウトみたいなところなら、これも伸び伸びと走れるだろうなと想像します。(といっても今のところ「軽便モジュール」をやる予定はありませんが)


■今年も東員駅の周辺でコスモスが花をつけ始めています。写真のような具合でまだまだこれからという感じ、線路と離れているのが難点ですが、コスモス畑の規模が大きく、今月はここで写真を狙ってみるかなあ。

参考文献:「私鉄電車のアルバム」別冊B「機関車/ナローゲージの車両」慶応義塾大学鉄道研究会交友社

欄外の余話】
 1955年2月生まれのスティーブ・ジョブスが亡くなった。1954年10月生まれの自分と同世代。AppleⅡを初めてみたときにタイプライタ―の上にちっちゃなモニターテレビを置いたような姿がカッコいいと思った。ソフトでは「スタートレック」のエンタプライズ号が登場するゲームをやってみたかった。でも高くて買えず、APⅡという互換マシンを組み立てようと算段したが、これも実現せず、翌年にNECのPC9801を買った。次にMIDIのキーボードに繋ぐMacが欲しくなり買う寸前までいったが、シャープからMacと同じ系統のCPUを積んだX68000が発売になり、音楽に活用する方法の開発という名目で試作品をただで手に入れた。そうこうするうちにウィンドウズ・マシンに乗換、パソコンではずっとMacには縁がなかったけれど、常にジョブズの創ったものには憧れを感じていた。悲しい!