修羅の日記(公開試運転中)

ダイアリーから移転しました

「生野越え」播但線和田山駅の煉瓦の複線機関庫と出石の皿そば


ネコパブリッシングの「国鉄時代」22/2010年8月号には三宅俊彦氏の「一枚の運用表から〜豊岡機関区和田山支区のパシフィック」という記事が掲載されています。播但線に関心を持つきっかけとなった記事ですが、播但線には線路状態から9600やD51が使われず、貨物列車の牽引も戦後C51が配属されて仕業に当たり、C54、C55、C57が順次配属になりパシフィック(軸配置が2C1、4-6-2、2軸先台車・3つの動輪・1軸従台車の機関車)王国が築かれていました。
 C54型はC51よりも軸重を軽減し使用線区を拡げようという狙いで製作されたものですが、現場では空転が多いと不評を買い、17両が生産されただけでC55型登場までの過渡期の機関車となりました。件の記事には「1956年にC54型3両が豊岡機関区転属になり、1959年4月に播但線生野-長谷間でC54 5が索引する団体臨時列車で、機関士・機関助士が窒息失神状態で運転不能となり、真名谷隧道において脱線転覆する痛ましい事故が発生した。」とあります。先に訪れた「長谷の大カーブ」の近くには慰霊碑がありました。
 このC54にしても、のちのドイツ・スタイルのディーゼル機関車DD54にしても、あまり長く使われることはありませんでしたが、鉄道模型では、なんとなく魅力を感じてしまうのは、「はかない」「薄幸な」「短命な」ということばに想いを馳せるマイナー好きの性格のせいでしょうか。

 最急25‰の勾配を持つ播但線を走ったパシフィックで、特筆したいのは小倉工場式切取除煙板、いわゆる門鉄デフ仕様のC5711です。今から40年以上前になりますが、「鉄道模型趣味」(No.255 1969年9月*1)のなかお・ゆたかさんの記事「C57 門鉄型デフとバルブギヤ―の前進位置」の冒頭の写真、福知山線で撮影した翼を広げたような、今にも空に飛びだしそうな姿に魅せられてしまった記憶があります。その記事の中で述べておられるように、門デフはパシフィックが一番似合うのではないかといわれますが、11番は門デフC57の中でも有名な1台ですね。
 本来、旅客列車が本業のパシフィックが播但線では貨物列車も受け持ち、生野越えは重連三重連だった、ということもあったと紹介されています。また同じ「国鉄時代」15/2008-11月号付録DVDでは播但線のC57の姿を映像で見ることができるのです。本当にいい時代になったものです。
 和田山駅播但線の終着駅、山陰本線が交わり、ツタが絡まる煉瓦の機関庫や給水塔などを見て、蒸機時代のパシフィックたちのにぎやかな音が聞こえてくるような気がします。
 和田山駅から出石に移動し「こだわりの昼飯」をとりました。出石名物の皿そば、「近又(きんまた)」というお店に入った。これは文句なしに美味かった。皿そばは最初は薬味を入れずに徐々に薬味や卵を入れていき、最後は蕎麦湯でいただきます。結局、追加でもう10皿ぺろりと食べました。出石は風情がある城下町として、近年、観光客を集めているところですが、小さい町なのにお城の跡や「辰鼓楼(しんころう)」という時計台や「永楽館」という芝居小屋など、観光名所が集中しています。なぜ名物が「そば」なのか、疑問でしたが、江戸時代の国替えの際に殿様が信州からそば職人を連れてきた、というのがルーツ、そののち出石焼の皿に盛り分けるようになったとのことです。
 豊岡市と出石を結ぶ「出石鉄道」の廃線跡も訪ねてみたかったのですが、生野や和田山で雨雲に追いかけられるように、強い雨に何度も打たれて、やる気を削がれ、時刻も4時前、早く温泉につかりたくて城崎温泉に向かいました。

*1:この1969年のTMSだけがバインダーにとじられて手元に残っています。1969年のTMSは「雲龍寺鉄道祖山線」に始まって「蒸気機関車のいる風景」「小特集ナローゲージ」など読み応えのある記事がたくさんあり、中坊には刺激的すぎました。