修羅の日記(公開試運転中)

ダイアリーから移転しました

勾配に挑む鉄道、信越本線横川-軽井沢間

 甥の撮ってきた写真の中で、もうひとつ「勾配に挑む鉄道」で外せないところは信越本線の横川-軽井沢間だと思う、これを知ったのは13歳のころ、機芸出版社の「陸蒸気からひかりまで」(片野正巳・赤井哲朗)である。キハ82石原産業のB6からスタートした鉄道への関心はこの本で、CやDのつかない古典蒸機の模型に向かうことになる。図面ではなく150分の1の原則側面だけのペン画なのだが、それが写真よりも模型作りへの意欲を沸かせる。
 この本で碓井峠越えの車両は、煉瓦積みアーチ橋と一緒に、66.7‰勾配をアプト式で越える3900型蒸機が1ページを使って登場する。アウトサイドフレーム、でかすぎる蒸気溜り、不似合いな重油タンクなどあまり格好良いとはいえない姿だが個性的。次に同じく冴えない姿の独AEG製の凸型電機EC40が32、33ページの見開き上半分で登場。次に72、73ページに「碓井の山男」のタイトルでED41、ED42が重連でスニ30を連れて、煉瓦積みのアーチ橋の上に登場する。この絵は最も印象的だった。掲載時期がはっきりしないが、ペン画が描かれたときはまだ現役か、引退して間もなくの頃だと思う。当時に別の雑誌で4両編成のED42がキハ82系特急「白鳥」を押し上げる写真も見たが、色も無いペン画が掻き立てる坊主頭の中学生の想像力には及ばない。今でも、この本を読むのではなく眺めることで、よくできたカタログみたいに自分は何か好きなのか、何を選ぶのか原点に返って確認する。


 横川と軽井沢の間はわずか11.2キロで、高低差が550mに及び勾配は66.7‰になり、開通した1893年明治26年)4月1日から1963年(昭和38年)までの70年間、線路のラックレールを車両の歯車を噛み合わせるアプト式で列車を運行し続けた。
 アプト区間が廃止になり新線に代わって粘着式の電気機関車EF62、EF63 、EF64の時代になっても勾配は66.7‰のままで列車の協調運転が行われ続けた。写真は「碓井峠鉄道文化むら」の電機連結面、上列右のオレンジのジャンパ栓受けは「4a□165」、真ん中列左は「169」、3段目右の緑は「115」、そして一番下の4段目赤色の二つはどちらも「キハ82」と書いてあり、甥は「おじさんにこれ見せたくて写真を撮ってきた。」と泣かせるセリフを言った。このほかにも自連と密連の両方が切り替えられる連結装置も装備している。自分も甥と同じく3形式では軸配置C-C台車のEF62が好みである。勾配に挑む鉄道が身に付けたシステム化の知恵を表す部分だと思う。
参考文献:記事の中の機芸出版社の本の他、鉄道ピクトリアル2009年1月増大号 特集「勾配に挑む鉄道」
参考にしたHP:碓井峠鉄道文化むら
http://www.usuitouge.com/bunkamura/




あまりにも有名だが、ラックレールが側溝の蓋として横川駅前に残っている。ご存知のように現在は、長野新幹線が開通して横川-軽井沢間はバスで越え、しかも長野までは第3セクターしなの鉄道になっている。
 ついでに軽井沢駅前でL電ことジェフリーの姿をカメラに収めてきてくれた。機芸出版社刊「シーナリー・ストラクチャーガイド1」には河村かずふさ氏が「高原のナロー草軽電鉄」という記事で、1962年から64年のころの草軽電鉄と国鉄アプト区間の貴重なカラー写真を掲載している。草軽交通HPには貴重なカラー動画を見ることができる。草軽電鉄については新軽井沢-草津温泉の55.5キロという線路延長の長さ、規模の大きさと小さい安っぽい車両のギャップに改めて驚かされる。下の名前を変えて今も続く会社のHPでは動画が見れる。一見の価値あり!
草軽交通株式会社
http://www.kkkg.co.jp/index.html
保存車両は雑草に覆われていかにも「草刈ってくれ!」という状態だし、左の車輪は一緒に保存されていた電車のものと想像するけれども、どうでしょうか?